
【トンイ】物語の中での肅宗(朝鮮19代王 スクチョン)の『17世紀から18世紀の日本史』についてまとめました
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🤗🤗🤗🤗 【 トンイ 】も本日で最終回となります ブログ記事も初デヴューで
なかなか慣れないので
大変に読みにくさを感じている事と思います
少しずつ進歩を重ねますので 宜しくお願いいたします 😂😂😂😂😂😂
💐 17世紀から18世紀前半の日本史は、江戸幕府による支配の安定期と「鎖国」政策の実施、そして町人文化の隆盛が特徴です。1603年に江戸幕府が開かれ、1615年には武家諸法度が制定されました。17世紀後半から18世紀初頭にかけては、**「元禄文化」が上方(京都・大阪)で栄え、井原西鶴や松尾芭蕉などが活躍しました。18世紀前半には、徳川吉宗による「享保の改革」**が行われ、幕府の財政再建と社会の安定化が図られました。
💕 以上が 大まかなまとめ記事です
いくつか詳しい内容を 抜粋して書いておきます 🥰
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元禄文化の発展(17世紀後半〜18世紀初頭)
経済の発展に伴い、大坂、京都など上方を中心に町人文化が花開きました。
浮世草子の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左衛門などが活躍し、庶民文化が大きく成長しました。
豪華絢爛な元禄文化は、町人たちの生活を豊かに彩り、商人階級の台頭を象徴するものでもありました。
この時代の文化は、現代の日本文化にも強い影響を残しています。
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享保の改革(1716年〜1745年)
8代将軍徳川吉宗は、幕府財政を立て直すために「享保の改革」を行いました。
倹約を推進し、新田開発を奨励して米の生産を増やしました。
また、庶民から意見を募る「目安箱」を設置し、政治への不満や提案を受け付ける革新的な制度も導入しました。
他にも裁判の基準となる法律の公事方御定書を整備し、政治の安定化を図りました。
享保の改革は、一時的に幕府の財政を回復させましたが、庶民の負担は増えました。
❤️ 【 暴れん坊将軍 】 皆さんもよく知っている 徳川吉宗について書いておきます 💕
徳川吉宗が生まれた「紀州徳川家」
1684年(貞享元年)、「徳川吉宗」(とくがわよしむね)幼名「源六」は紀州藩2代藩主「徳川光貞」(とくがわみつさだ)の四男として誕生しました。
徳川吉宗が生まれた紀州藩の藩主は、「徳川御三家」のひとつ「紀州徳川家」が代々務めていました。徳川御三家とは、徳川将軍家に次ぐ地位を所有していた「尾張徳川家」、紀州徳川家、「水戸徳川家」の3家のこと。
そして、その役割は徳川宗家の血筋が絶えた際に、徳川宗家の代わりに将軍を輩出することです。その場合には、尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家の順に選出されることになっており、将軍が崩御した時点で尾張徳川家に将軍候補となる男子がいなかった場合、次点で紀州徳川家の嫡男が将軍として選ばれるように決められていました。
しかし、御三家筆頭だった尾張徳川家は当時、「尾張藩は将軍位を争うべからず」とする不文律(ふぶんりつ:明文化されていない、暗黙のルールのこと)が存在。そして、その不文律が理由となって、将軍候補ではなかったはずの徳川吉宗が、のちに8代将軍へと抜擢されることになります。
生まれた時点で将軍候補から外れていた徳川吉宗は、5歳頃まで家老のもとで暮らしていました。兄の「徳川次郎吉」(徳川光貞の二男)が病死した時期に「徳川新之助」と改名し、江戸紀州藩邸へ移住。「手に負えないほどの暴れん坊」と噂されるほど元気な少年時代を過ごします。
1705年(宝永2年)、紀州藩3代藩主で長兄の「徳川綱教」(とくがわつなのり)が病没し、同年のうちに父・徳川光貞や三男「徳川頼職」(とくがわよりもと)が立て続けに亡くなってしまいます。そして、この時点で2人の兄には後継ぎとなる子がいませんでした。そのため、22歳になった徳川吉宗が紀州藩5代藩主となり、財政難に陥っていた紀州藩の財政改革を進めることになります。
❤️ 紀州藩主時代の徳川吉宗
当時の紀州藩が財政難に陥っていた理由は主に2つありました。ひとつは、100,000両以上の借金。そして、もうひとつが1707年(宝永4年)に起きた「宝永地震」(ほうえいじしん)の復旧費用です。
徳川吉宗は「質素倹約」を掲げ、率先して質の低い着物を着用した他、家臣達にも倹約するよう誘導しました。さらに、のちに江戸城(東京都千代田区)に設置される「目安箱」(めやすばこ)の原型となる「訴訟箱」(そじょうばこ)を和歌山城(和歌山県和歌山市)の大手門前に設置。民意を直接聞けるように環境を整えたのです。
藩主自らが身分の低い者達からの言葉を聞けるようにした理由は、過去のできごとを活かすためと言われています。徳川吉宗が紀州藩主になる以前のこと。お忍びで街を歩いていたとき、徳川吉宗はある夫婦の喧嘩を目撃。その際に、喧嘩を止めるために飛び込んだ隣人へ「殿様でもない人の話なんて聞けるか」と夫婦が罵ったのです。
後日、徳川吉宗は家臣を通して「殿様本人ではなく、その四男坊の言葉では足りないかもしれないが、喧嘩をせず仲良く暮らすように」と夫婦へ伝えました。これがきっかけとなって、夫婦は喧嘩を控えるようになったとか。
こうして、徳川吉宗は身分が低い者達の意見にも目を通すようになり、紀州藩主として財政再建に励みました。
❤️ 8代将軍・徳川吉宗の財政改革
徳川吉宗が紀州藩主となってから6年後の1716年(享保元年)、7代将軍「徳川家継」(とくがわいえつぐ)が8歳で早世。これにより徳川宗家の血筋が絶えたことで、徳川御三家から将軍を輩出する話が持ち上がります。
しかし、御三家筆頭である尾張徳川家は不文律によって将軍候補を出すことがなかったため、次点の紀州徳川家で藩主を勤めていた徳川吉宗が8代将軍に任命。以後、徳川吉宗は紀州藩から幕府へ活躍の場を移し、幕府の財政改革に乗り出すのです。
将軍となって間もなく、徳川吉宗は紀州藩士のなかでも、足軽をはじめとして大役に就いていない家臣を40名余り選出し、江戸へ迎え入れました。この対応によって当時、側近政治(権力者の家臣・側近が実権を握って行われる政治)に反感を抱いていた譜代大名や旗本からも好感を持たれるようになったと言われています。
💕 大奥
そして、徳川吉宗は紀州藩で行っていたように、無駄な支出を減らす政策をはじめました。食事の回数は1日2回に減らし、献立も一汁一菜を徹底。
将軍の夫人である御台所(みだいどころ:正室)や側室が居住していた「大奥」にも手が掛けられ、勤めていた女中4,000人を1,300人にまで削減。このとき、美しい女性ばかりが解雇されていますが、これは大奥から離れても生活していけるだろうと見込まれたためと言われています。
❤️ 享保の改革とは
財源を確保するために、徳川吉宗が行った一連の改革を「享保の改革」(きょうほうのかいかく)と言います。享保の改革は「寛政の改革」(かんせいのかいかく)、「天保の改革」(てんぽうのかいかく)と並び「江戸三大改革」のひとつに挙げられており、江戸三大改革のなかで最も成功した改革です。
そのため、徳川吉宗は「江戸幕府中興の祖」(ちゅうこうのそ:統治者のうち、危機的な政権の回復といった功績があった者のこと)と呼ばれることもあります。
徳川吉宗が享保の改革で行った政策は様々ありますが、特に有名なのは①上米の制(あげまいのせい)、②吹替え(ふきかえ)の実施、③定免法(じょうめんほう)の採用、④公事方御定書(くじかたおさだめがき)の制定、⑤堂島米会所(どうじまこめかいしょ)の公認の5つです。
💕①上米の制
1722年(享保7年)、徳川吉宗は財政を潤わせるために「上米の制」を導入しました。上米の制とは、通常1年だった参勤交代の期間を半年に短縮する代わりに、石高10,000石につき100石の米を幕府に献上すると言う制度のこと。
参勤交代が緩和されたことで、江戸藩邸は経費削減につながりましたが、幕府の財政を各藩に依存する形で行われたため、幕府の権威を失墜させる原因になってしまいます。また、この他にも問題点が多くあったため、上米の制は1730年(享保15年)に廃止されました。
💕 ②吹替えの実施
徳川吉宗が将軍職に就く以前の1709年(宝永6年)から1715年(正徳5年)、6代将軍「徳川家宣」(とくがわいえのぶ)と7代将軍・徳川家継の時代に進められた政治改革を「正徳の治」(しょうとくのち)と言います。
そして、この時期に朱子学者「新井白石」(あらいはくせき)が行ったのが小判の金含有率を、江戸幕府初期に戻す「改鋳」(かいちゅう)です。これによって、「正徳金銀」(しょうとくきんぎん:江戸幕府が発行した金貨と銀貨)が鋳造・流通するようになるのですが、これがデフレ(日用品やサービスの値段[物価]が全体的に下がる現象)の原因となることに。
💐 小判の吹替え
デフレを解消させるため、1736年(元文元年)に行われたのが「吹替え」です。
吹替えとは、金含有率を低下させるために、流通していた貨幣を回収して鋳潰し(いつぶし)、再び市場へ流通させることです。
吹替えによって小判の流通量は1.5倍になり、インフレ(物の値段が上がる現象)が発生してしまいましたが、次第に経済状況は好転。
この政策はのちに「元文の改鋳」(げんぶんのかいちゅう)と呼ばれ、日本史上でも経済全体に好影響を与えた数少ないリフレ政策(物の価格を安定させ、経済の安定化を促す政策)として有名になります。
💕 ③定免法の採用
江戸時代に行われた徴税法は、主に「検見法」(けみほう:1年のうちにお米をどれほど収穫できたか検査し、年貢量を決定する)と「定免法」の2つがあり、このうち徳川吉宗が行ったのが定免法です。
定免法とは、過去数年間にどれだけ年貢を納めたか、その平均収量を基準として、3~5年の間は一定の年貢を納めると言う制度のこと。
この方法は、幕府の財源を安定させることができますが、凶作の時期でも例年と変わらない年貢を納めなければいけませんでした。そのため、凶作の時期は検見法を行うことで減免すると言う対策が採られたと言います。
💕④公事方御定書の制定
公事方御定書とは、上巻と下巻からなる江戸幕府の基本法典のこと。公事方御定書が定められる前までは、禁止事項などが「触書」(ふれがき)によって法令が出されていました。現代のような刑法・民法などのまとまりを持った法律がなかったため、徳川吉宗の指導によって作成されたのが公事方御定書です。
公事方御定書の編纂が開始されたのは1737年(元文2年)、できあがったのは1742年(寛保2年)と、約6年もの時間が費やされました。完成後すぐに運用が始まりますが、そののちも増補・修正が実施されたため、実際に完成したのは1754年(宝暦4年)になったときです。
そして、公事方御定書の特筆すべき点と言えば、罪を犯した者に「更生の余地」を与えること。それまでは、犯罪者となった者の多くが死罪・追放刑(立ち入り禁止区域を定め、そこへの侵入を一生認めない刑罰)に処されました。
💐 宗門人別改帳
なかでも追放刑は、立ち入り禁止区域への進入禁止だけではなく、区域外へ追放される際に「宗門人別改帳」(しゅうもんにんべつあらためちょう:現代で言う戸籍原簿や租税台帳)から外されてしまう重い刑罰です。
宗門人別改帳を外された者は「無宿」(むしゅく)と呼ばれ、仕事に就く際の保証人を付けることすらできなくなるため、追放されたあとは窃盗など別の罪を犯す恐れもありました。
そうした状況に憂いを覚えた徳川吉宗は、公事方御定書に死罪や追放財以外の刑罰を定めることで、罪人であっても再び社会へ戻るチャンスを与えたのです。
💕 ⑤堂島米会所の公認
江戸時代当時、年貢として徴収されたお米の多くは大坂をはじめ各大都市へと運ばれました。お米は、金貨や銀貨と違い全国共通通貨としての役割があったため、当時の日本の経済基盤はお米にあったと言っても過言ではありません。
大坂は、幕府直轄地の城下町であったことに加えて、海や川などの水上交通に適した地です。そのため、大坂の堂島(現在の大阪市北区)にはお米の取引所「淀屋米市場」(よどやこめいちば:のちの堂島米会所)が作られ、市場に出回っていた約500万石のうち、約4割(約200万石)が大坂で取引されるほど賑わっていました。
1730年(享保15年)、淀屋米市場は移転したことを機に「堂島米市場」へと名称を変更。その後、幕府公認の「先物取引市場」として堂島米会所と呼ばれるようになります。
当時、堂島米会所では現物取引以外にも、重量のある米俵でやり取りする必要がないように「米手形」(こめてがた)と呼ばれる「お米券」を発行することで取引をしやすくしていました。しかし、お米を収穫しない春や秋は価格が高騰しやすかったことから、「帳合米取引」(ちょうあいまいとりひき:帳簿上だけでお米の取引を行うこと)をすることで、価格の変動にも対応したと言います。
堂島米会所は幕末時代まで、江戸時代の日本経済システムの中枢として機能していきました。
❤️❤️❤️❤️ 徳川吉宗の評価
徳川吉宗は、その施策がすべて成功したわけでも、すべて失敗したわけでもないため、現代においても評価が2分される将軍です。例えば享保の改革は、幕府の財政を安定させたことで、そののち行われる寛政の改革や天保の改革の手本としても採用されますが、一部の政策はのちに幕府や将軍の権威を失墜させる一因になっています。
一方で、徳川吉宗が幕府を再興させたおかげで、日本が外国の植民地にならずに済んだとする意見も存在。この他にも、「小石川養生所」現在の「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」(東京都文京区)を創設して医療制度の向上に貢献したことや、キリスト教関連以外の洋書の輸入を解禁し、蘭学発展の基盤を築いたことなどは高く評価されています。後世になって活躍した偉人のなかには、徳川吉宗が解禁を許可した蘭書によって蘭学を学び、出世の道が拓かれた人も少なくありません。
なお、徳川吉宗を主役とする時代劇のタイトルに「暴れん坊」と付けられたことで徳川吉宗は「手の付けられない暴れ者」と言うイメージが付いていますが、実際は勤勉で、人々を公平に扱う人でした。
庶民からもよく慕われており、「徳川吉宗が将軍として江戸へ向かう際、紀州藩の名主のなかで祝いの言葉をかける者は誰もいなかった」と言う逸話も存在。徳川吉宗を慕っていた人々は、徳川吉宗がいなくなることを寂しがっていたため、喜べなかったのです。
当時から庶民に信頼され、現代では時代劇の影響で広く名が知られるようになった8代将軍・徳川吉宗。若い頃から庶民の意見に耳を傾けて問題を解決しようとした姿は、現代でも理想のリーダー像となっています。
🥰🥰🥰🥰 日本でも色々な改革があり 特に徳川吉宗将軍が
庶民の為に特に考え ・・・・政治を行った方 ・・・・・
🤗🤗🤗🤗 次回は 韓国時代劇 【 イ・ビョンフン 】 演出・監督のシリーズを
書いておきます 楽しみにしてください 😍😍😍😍😍😍😍